孫疲れ + 介護疲れ + 仕事疲れ

  • 2017.07.11 Tuesday
  • 22:10

 

JUGEMテーマ:日常

7月11日と言えば、そう言えばもう夏か?

この焼けるような陽射し、うだるような暑さは当たり前のことなのか?

なんか、季節も判らなくなるほどの忙しさなんです。

 

ここ数カ月、92歳になる両親(それぞれ)の病院送迎と通院介助、日々の生活の介助が日に日に大変になってきて、

正直言って、仕事どころではないという感じ。

 

そんなこんなで、分刻みのスケジュールを将棋の駒のように動かしてやりくりしている中、昨日、抜けられない仕事の途中に、下の孫が急に熱を出して迎えに来てほしいと保育園から連絡があり、僕たちが無理なので、娘が仕事を早退し保育園へお迎え。

病院通いの都合で上の孫を僕たち夫婦で仕事帰りにお迎え。

そして今日は、娘夫婦は仕事を休めず、結局、僕は、早朝から滋賀まで仕事に行き、戻ってから父を大阪市内の病院まで送迎、妻が孫の世話、それに加えてまた急に片付け仕事依頼の電話が入ってくる。

明日は、また母の病院送迎。これは僕一人では無理なので夫婦二人で出かけることになる。

孫の熱が下がらなければ娘は会社を休むことになる。

午後から僕は片付けの現場仕事。

いつのまにか7月のカレンダーは、ほぼ書き込みで埋まってしまった。

 

どうしてこんな慌ただしい毎日を過ごすことになるのだろう?

そして、まだまだ先が見えない。

まだほんの出発地点。

本当に大変なのはこれからなのは百も承知

心静かに、空をながめて、海をながめて、穏やかに過ごしたい。

生きるって本当に大変ですね。

 


日曜日、実家の旧式エアコンの撤去作業をしていると、実家の向かいに住んでいる娘の旦那と孫二人がお昼ごはんに出かけるところだったので、一緒に出掛けました。束の間の休息。

 

 

 

 

保育参観

  • 2017.07.07 Friday
  • 06:27

JUGEMテーマ:日常

 

 

 

久々のブログ更新です。

昨日、孫2人が通う保育園の保育参観がありました。

3歳児、0歳児、同時に参観があったので、家内が下の孫、僕が上の孫担当で参観しました。

 

体操やお遊戯をたっぷりしたあと、

ちょうど七夕ということで、七夕の笹飾りを、それぞれ親子?で工作して、園庭のジャングルジムなどに飾られた笹に吊るして参観は終わりました。

忙しい中、ホッと一息、ちょっと心和んだひと時でした。

 

さて、毎日毎日、様々なことが目まぐるしく変化し、とにかく慌ただしい日々が続きます。

カレンダーはあれやこれやでビッシリ詰まっていて、スケジュールの空いている日がほとんどない毎日です。

仕事と私事で分けると、断然私事のほうが今大変。

 

そんな中、先週の金曜日の早朝(朝4時頃)、信楽時遊館付近?と言うか、信楽時遊館に?と言うのか、に落雷があったみたいで、

朝、電気のメインブレーカーが落ちていて、完全に停電。

ブレーカーを復帰しようにも復帰不能。

関西電力へ連絡してサービスカーが到着するまで半日以上、電気は点かないし、パソコンは使えないし、何もできない。

その日、滋賀県内のあちこちで落雷による被害があったようで、手が足りないとのこと。

午後になってやっと作業員が来てくれて、ブレーカーの復帰作業を試みてくれるが、結局、メインブレーカーのコイルが焼けているみたいで復帰不能。

応急処置で、部分的に通電できる状態にしてもらったのが、もう夕方、その日はそれで終了。

2日後、近所の電気工事店から作業員が来てくれて、再度作業をしてもらう。

結局、メインブレーカー(漏電遮断ブレーカー)を交換する以外手がないということで、メーカーに部品を調達してもらい、明後日やっと交換工事に来てくれます。

 

その後、敷地内を点検すると、インターホンが故障、2階の蛍光灯が一か所故障、3か所の倉庫(他の倉庫は電気を引いていない)それぞれのメインブレーカーが落ちている、など、落雷のすさまじさに驚かされる。

お隣は、給湯器の基盤が壊れてしまったようで、一昨日作業員が基盤交換に来たということ。

 

なんか、何を考えるのも億劫になるぐらい、とにかく忙しいです。

 

国鉄時代の草津線

  • 2017.05.22 Monday
  • 16:47

昭和51年頃の草津線は、まだ非電化路線で、本当にローカル色豊かな田園風景の中を、気動車や旧型客車がのんびりと走っているという感じでした。

明治の頃には、まだ国有化されていなかった、私鉄路線、関西鉄道誕生の地でもあった歴史のある路線。

東海道線の電車が行き交う草津駅の一番南側のホームが草津線ホームだ。

そして、そのホームの南側には、草津線専用の機関支区や車両工場などがまだ残っていたのを記憶している。

同じ草津駅でも、草津線ホームだけ全く別の空気が流れていた。

草津駅の東海道線ホーム   快速電車や新快速電車も、今となっては懐かしい


草津線のりばに停車する亀山機関区のキハ53 5 まだ、当時は配属されて間もない新車で、主に信楽線の運用に使われていた。

草津発柘植行きの先頭に連結され、貴生川駅で切り離され、信楽線へ入線する運用。

信楽線を何往復化した後に、また草津線の最後尾に連結されて草津へ。

一日の最後は貴生川駅で柘植行きの気動車の先頭に連結され、柘植へ向かい、亀山機関区に戻る。

DD51牽引の旧型2軸の貨物列車も結構多く運行されていて、面白い光景が見られました。

草津行きキハ35の最後尾に、信楽から戻ってきたキハ53が近づいてくる。

このあと連結され、草津へ向かう。

 

 

 

 

ちょうど田植えが終わった今の季節ですね。

草津線の田園風景を行くDD51牽引の貨物列車。本当に、模型にしたいような風景です。

多分、貴生川駅の駅前広場風景だと思われます。昔懐かしい風景です。今はすっかり景色が変わってしまいました。

 

柘植→京都の間で朝夕に数本運行されていた、貴重な旧型客車通勤列車です。オハ35系、スハ43系、ナハ10系、ほか広窓の旧型急行グリーン車両をロングシート化した車両など、結構珍しい車両が見られました。

しかし国鉄終末期には、新車でデビューしたオハ50系の赤い自動扉客車(レッドトレイン)にすべて置き換えられ、DD51が牽引していました。

その後、草津線電化に伴い客車の運用そのものが廃止となりました。

朝一番のダイヤは、亀山発京都行、あとの数本は柘植発京都行だったように記憶しています。

草津から京都まで、快速電車や新快速電車や特急電車が120キロで疾走する傍らを、DD51が旧型(雑型)客車を牽引していた風景を今振り返ると、なんかワクワクしてしまいますね。

実におもしろい時代でした。

夕方、柘植駅の留置線で翌朝まで留置される客車と、数両を柘植駅に残して、関西線を亀山まで回送され、翌朝の亀山発の列車になるもの、など、その運用は毎日決まっていたようですが、僕にはあまり詳しく解りませんでした。

柘植駅にあった転車台などの機関支区の施設も、今では見る影もありません。

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国鉄時代の亀山駅、亀山機関区・珍しい車両

  • 2017.05.17 Wednesday
  • 11:02

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亀山駅、亀山機関区を昭和51年に訪ねた時の画像です。

時々、珍しい車両を見ることがありました。

ソ107 亀山区所属の事故救援用操重車+2軸貨車(形式不明)+スエ71 4の3両がホームに横付けされていたので撮影 

昭和51年9月のある日の光景

 

第二次大戦で多くの客車が戦災被害に遭い、その客車不足を解消するため、使えそうな20メートル鋼製車両を種車としてオハ71系客車が製造されました。

スエ71 4は1948(昭和23)年戦災復旧車オハ71 112として作られ、その後、荷物車マニ74 3となり、1962(昭和37)年に救援車スエ71 4となり、亀山区に配属。

機関庫の横に金属スクラップの山が・・・その時は特に何も思わずに撮影したのですが、ひょっとして蒸気機関車の解体?

DD51 1041 1042 1043が、白線なしの奇妙な塗装で登場。

確か、昭和51年の全検を終えた段階で、この3両から白線が消えたように記憶しています。

新塗色の試行だとか?聞いたように思います。

最初見た時は、かなり驚きましたが、だんだん見慣れてきました。

大きな機関区、大きな駅に一日いると、次々に色々な発見があって、興味深いものでした。

これらの画像以外にも、建築限界測定車両 オヤ31(おいらん列車の愛称がある)がいきなり入線してきたリ、とか奇妙な工事用車両などを見かけることもありましたが、いきなりのことで、撮影できなかったのを覚えています。

国鉄時代の亀山駅、亀山機関区 昭和51年

  • 2017.05.16 Tuesday
  • 22:27

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昭和51年、すでに関西線の木津、亀山間の旅客列車は、朝夕の柘植経由草津行の通勤客車以外、すべて気動車化されていました。

キハ20系やキハ45系とキハ30系の混成編成がほとんどで、キハ30系ばかりの編成が入線したら大外れ。

キハ30系は、関西線の通勤用に設計されたロングシート3扉車で、全く旅情がないし、車窓をな眺めながらビールを飲んで弁当も食べられない。

急行「かすが」や「しま1号」などは、キハ28とキハ58にキロ28の編成でしたね。

まあ、貧乏学生には滅多に乗るチャンスはなかったですけど。

 

D51の重連が長い客車を引っ張って加太峠を勇ましく駆け上ったのは、すでにこの時代には昔語り。

でも中在家信号所でのスイッチバックの行き違いは、まだまだ健在でした。

関西線の貨物列車や郵便荷物列車は、DD51が牽引していましたね。

この時代、まだ2軸貨車を延々と連ねた貨物列車が行き来していました。

関西線、奈良→亀山 キハ25バス窓タイプ(上部の窓がHゴム仕様)+キハ35+キハ20 乗るならバス窓仕様か?台車が古い形式なのでレールの継ぎ目の振動がダイレクトに味わえる・・・みたいな?でもよく見るとバス窓なのに台車はDT19ではなくDT22?ああ、鉄道マニアにはなりたくないね・・・

急行かすが?しま?のいずれかでしょう。画像からも確認できますが、亀山機関区に昨年まであった巨大な給炭台クレーンが、この年には姿を消しています。

キハ35ばかりの大外れ編成。弁当とビールを買って待っていてこの編成が来るとガッカリしてしまったものでした

いつの間にか、2軸の貨物列車がなくなりましたね。今、JR貨物は特急コンテナだけですよね

 

新宮行客車列車  当時は、こうしてホームから降りて撮影していても御咎めなし。逆に、機関士の人が、DF50について色々教えてくれたり運転席を見せてくれたり、本当に大らかな時代でした。今ならブログ炎上でしょうね。この写真を見て、あらためて、このアングルは今では絶対に考えられないことだと思いました。

オハフ33のトップナンバーです。 亀山行 新宮行 のホーロー中吊り、白サボがついています。この時代は、もうつり下げ金具がついたサボはほとんど使われていません。古いサボは管理局からの指示で、弘済会を通じて掻き集められ、鉄道記念日などに開催された即売会で大量に鉄道ファンに販売放出されました。僕も学生時代から何日も徹夜して買い漁っていた一人でした。でも、マニアというほどの徹底した収集家ではありませんでした。

 

さて、紀勢線、参宮線は、キハ10、11、17、キハ20、25、キハ30、35などの気動車が中心でしたが、一日に数本、客車列車(蒸気機関車の頃のままのダイヤ)の運用が残っていて、DF50が牽引していました。

亀山発新宮行が数本、名古屋発天王寺行が一本、そして前回のブログにも書いた名古屋発津行が一本。

オハ35、オハフ33、スハ43、スハフ42などの旧型客車が活躍。

オハフ33 1やオハフ333など、昭和戦前の客車が何食わぬ顔をして活躍していたのが、今思うと不思議なぐらいノスタルジックな時代でしたね。

これらの旧型客車は自動扉はなくて、今の季節になると扉は開けっ放し、そして客車の先端と後端も開けっ放しが当たり前。

DF50に牽引された一両目の連結部分に立って夜風に吹かれていると、本当に夢のような気分。

 

少しマニアックな話になりますが、DF50の2軸+2軸+2軸のほぼ等間隔の台車と、オハフ33の少しスパンの長い2軸台車が25メートルレールの継ぎ目を踏む時、「タ・タ・タ・タ・タ・タ・タ・タン・・タ・タ・タ・タ・タ・タ・タ・タン・・」というほぼ等間隔のリズムが最高に心地良かったのが忘れられない。

ハーレーダビッドソンの気まぐれな三拍子にも夢中になった時期がありましたが、このリズムはそれ以上の心地良さ。

DD51の刻むリズムは、少し違うんだ。

タタ・・タタ・・タタ・・タ・タン・・っていう少しリズム感の悪い変な間が開く。

もちろん、蒸気機関車にも機関車ごとにレールの継ぎ目を踏む瞬間の独特のリズムがあるのですよ。

それも蒸気は、動輪と従輪との直径の違いや重量の大きな違いがあるので、音質や重量感も微妙に違い、DF50のような無機質な等間隔リズムにならない。

こんな話をし出したら夜が更けるのも忘れていつまでも語ってしまいそうなので、今日はおしまい。

国鉄時代昭和50年の亀山駅、亀山機関区

  • 2017.05.15 Monday
  • 17:12

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僕は、本来「乗り鉄」というわけではない。

「撮り鉄」というわけでもない。

鉄道模型マニアというわけでもない。

鉄道部品マニアというわけでもない。

そして鉄道工学や鉄道施設に詳しいわけでもない。

ただ、ローカル線の昔懐かしい風景が好きなだけ・・・ぐらいの、薄っぺらい鉄道ファンでしかない。

 

僕が大学時代から新卒で就職したばかりの頃、日本国有鉄道は、動力近代化の波に乗り遅れ、余剰人員の整理もままならず、まさに火の車。各地の多くのローカル線は廃線の危機だった。

 

しかし、日本国有鉄道という名称からも解るように、親方日の丸、どんな赤字を抱えていても破産することはないという風潮があり、地方の国鉄職員の人は、赤字などどこ吹く風という感じで、結構大らかにのんびりとした仕事ぶりだったように思う。

夏場はアイスクリームを食べながらの運転とか、ジュースを飲みながらの運転なんていう姿も珍しくなかった。

僕が鉄道ファンだと判ると、機関車の運転席を見せてくれたり、機関区に案内してくれたり、・・・・色々思い出すと、今では想像もできないような大らかな時代だった。

夕方から夜の時間帯に、名古屋発、津行きの6両編成ぐらいの通勤客車が一本あった。

亀山駅で進行方向が変わり、DD51からDF50に機関車が付け替えられる。

機関車入れ替えのため随分長い時間亀山駅に停車する。

そこで、その客車に乗り込むと、6両編成の客車に乗客は僕一人ということがあった。

薄暗い白熱灯、木製の壁や天井、・・・・なんか夢に出てくる天国行きの客車みたいだった。

夜8時20分、終着の津駅で降車し、改札へ向かうと跨線橋の階段からは近鉄線ホームから帰宅ラッシュの人の波が改札口に押し寄せてくるという、国鉄と近鉄では全くの別世界だったことを今でも鮮明に覚えている。

だからこそ旅情を感じ、いかにも旅をしているという風情があり、国鉄ローカル線が好きだった。

昭和50年、51年頃、僕は何度か亀山駅に降り、亀山機関区を訪ねている。

湊町(現なんば駅)から名古屋までだが関西本線なのだが、亀山を境に西側と東側で全く車両の運用が違ったため、言ってみれば別の線区だった。そして参宮線と紀勢本線の起点でもあった亀山機関区には、結構沢山の機関車や気動車や旧型客車や貨車、その他様々な車両が配置されていて、興味深い場所だった。

廃車となったC58 312とC57 110蒸気機関車 C57110は昭和31年六軒駅衝突事故の復旧車として忘れられない機関車

 

昭和48年10月に無煙化となり休車になった蒸気機関車が昭和50年にはまだ側線に置かれたままだった。

そして、機関区の裏手には蒸気機関車のための巨大な給炭台もまだ残っていた。

しかし機関庫の中は、紀勢線用のDF50と関西線用のDD51が陣取っていて、とても賑やかだった。

 

 

 

DF50は、電気式ディーゼル機関車という珍しい構造の機関車。

簡単に言えば、ディーゼルエンジンで発電し、その電気でモーターを回転させ走らせる機関車。

名称的には、本当ならディーゼル発電機搭載式電気機関車と言うべきか?面白い発想の機関車だ

そして機関区奥の留置線にはキハ20、キハ25、キハ28,58、キハ55、キハ30、キハ35などなど気動車が一杯。

ホームからは見えない、はるか奥の客車区には、5両編成ぐらいに組まれたオハ35系やスハ43系などの旧型客車が整然と並んでいた。

朝一番の草津線経由京都行き列車や、新宮行きなど比較的長距離の運用が客車の役目だった。

 

鉄道ファンでなくとも、この賑やかな風景には心躍るのではないだろうか。

今日は、昭和50年秋の亀山機関区の風景を数枚。

次回は、翌年、昭和51年の同じく亀山の風景をアップする予定です。

今日は39回目の結婚記念日

  • 2017.05.14 Sunday
  • 21:53

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全くの私事です。

今日は、39回目の結婚記念日です。

小さなケーキを買ってきて、ささやかな結婚記念日パーティーをしました。

もちろん参加者は二人だけです。

これまで二人とも大きな事故や病気やケガや入院をすることなく、なんとか生きてこれたこと、僕たちを取り巻く全ての神々、人々に心から感謝しています。

これからも健康に留意し、あまり頑張りすぎずやっていけたらと思っています。

 

さて、最近、年のせいか昔のことを振り返ることが多いです。

そんな中で、思い出そうとしても思い出せない記憶ってとっても気になるものです。

朧げな記憶の中でも、僕が2歳から4歳頃まで暮らした西宮の家(父の会社の社宅)の場所がどうしても思い出せないという長年の気がかりが最近解決しました。

 

本当に夢のような微かな記憶に残っている風景は、西宮北口から阪急バスに乗り、川沿いに走り、右手に池があって少し行った所の橋を右折して、少し上り坂を上り、少し行った所にバス停があった。そこでバスを降りて、左手に下り坂があって、その坂の下の左側一軒目が我が家だった。

その坂道を三輪車で猛スピードで下るのが毎日の楽しいマイブームだった・・・・・

それだけが朧げな記憶に残っているヒントでした。

 

仕事で近くを通るたびにどこだったのだろう?と気になって気になって・・・・

「甲東園行きのバス」という地名だけ、耳慣れた記憶があったのです。

グーグルマップやグーグルアースで西宮市の隅から隅まで行ったり来たり・・・・

そんな中、つい2週間ほど前、あれやこれやと検索している中、「グーグルマップを使って過去の地形図や空中写真を見る」という、現在のグーグルマップ、明治時代の地図、1962年、1975年、1985年などの航空写真や地図で、同じ場所を比較することができるサイトを見つけ、おかげ様で、僕が2歳から4歳まで住んでいた場所を発見することができました。

 

その場所は一ヶ谷町というバス停がある場所でした。そして現在は、小さな公園とマンションになっている場所が、昔の我が家でした。

長年の謎が解けた、かなり嬉しい出来事でした。

 

その後、そのサイトで色々な場所の現在、過去の航空写真や地図を見比べることに夢中になってしまっている今日この頃。

都市部ほど色々な年代の資料があり、田舎ほど資料が少ないのが難点ですが、結構役立ちます。

 

ついでに、全国の古い街並みのグーグルマップ、グーグルアース旅行にも夢中になっている日々・・・

グーグルアースが更新される度に、これまであった旧い家が解体されて更地になっているという悲しい発見も少なくないです。

決して毎日、暇な訳ではないのですけど・・・ついつい夢中になってしまいます

信楽高原鐡道が国鉄信楽線だった頃の昔話

  • 2017.05.14 Sunday
  • 20:04

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今日は39年目の結婚記念日、そして忘れもしない信楽高原鐵道事故から26年・・・

僕は、若い頃から国鉄(現在のJR)の非電化、単線のローカル線マニアで、夏休みや冬休みになると、草津線、関西線、紀勢線、名松線などをよく旅をしたものでした。

その中でも国鉄信楽線(現在の信楽高原鐵道)は、どの路線よりも憧れの路線でした。

普通、男の子は、パンタグラフのある長大編成の電車が複々線の路線を轟音を轟かせて疾走する姿に憧れるみたいですが、僕は、子供の頃から田園風景の中、単線の頼りないレールの上を一両か二両編成の列車が緩やかに走る姿が大好きで、信楽線も、そのまま模型にしてしまいたいぐらいの大好きな路線でした。

現在、僕は、信楽在住ですが、あの痛ましい事故があった26年前は、まだ信楽町の住民ではありませんでした。

でも、あの事故は毎年5月14日が来るたびに決して忘れられない悲しい出来事です。

ツツジが咲き誇り、森の新緑が萌え、信楽町が最も美しく輝く5月、なぜあんなに痛ましい事故が起きなければならなかったのか、どう考えても今でも信じられない出来事なのです。

 

あと少しで信楽駅へ到着するキハ30+キハ52 真夏の陽射し照り付ける中、今考えてみると、当時はクーラーなんかないのが当たり前でしたね・・・。

 

 

 

 

雲井駅へ到着したキハ52  真冬の寒々とした風景です。
 

一両で信楽方面へ向かうキハ52 当時、玉桂寺前という駅があったかどうか記憶にありません。

 

 

今日の画像は、昭和50年の夏の画像が一枚と昭和51年の冬の画像が4枚、いずれも国鉄信楽線の画像です。

 

当時、信楽線へは亀山機関区のキハ52が貴生川で切り離されて1両で運用されることが多かったようですが、キハ30との2両で往復運用されることもよくあったようです。当然、当時の気動車は重量の割りに出力も十分ではなく、2エンジンのキハ52でさえ、乗客の多い夕方の時間帯などは貴生川駅を出てからしばらくして差し掛かる33.3パーミールの本格的な登り坂になると、時速25キロを下回り、直結では運転できなくなり、やむなくトルコン変速機走行に切り替わるということもよくありました。

当時の気動車の直変切り替え装置付きのマスコン(動力運転装置)が大好きで、現物を払い下げで入手し、現在も模型の運転装置として使っているほど気に入っています。

画像の雲井駅は、当時、信楽駅と同じく、いかにも国鉄ローカル線らしい駅の雰囲気があり、とても気に入っている駅でした。

信楽高原鐡道事故で犠牲になられた方々への鎮魂を意味するものではないですが、僕にとって忘れられない痛ましい日。

時を戻すことはできないですが、国鉄時代の信楽線の昔話を少しだけ語ってみました。

僕に何ができるわけでもありませんが、事故で犠牲になられた多くの方々へのご冥福を心よりお祈り致します。

鉄道は便利で快適であるべきですが、まず安全であるべき交通手段。

今後も痛ましい事故が起きることのない鉄道であることを願います。

 

今日、当ブログに、国鉄時代のローカル線の思い出を語るカテゴリーを新設しました。

これから時々、40年以上前の昔懐かしい思い出を語ってみようかなあ?と思っています。

興味のある方がおられましたら、時々遊びに来て頂ければ嬉しいです。

ゴールデンウィーク渋滞

  • 2017.05.05 Friday
  • 07:48

JUGEMテーマ:日常

 

 

 

 

 

 

5月3日は、近江八幡のいなかの祭り。

昔は、家族全員で泊りがけで出かけたものだ。

今年は家内と二人で夕方から出かけて夜に帰宅という、ただ祭りのためだけに出かけたという感じ。

村全体、11組、それぞれの組が5メートルから10メートルほどの杉の心棒に藁や菜種ガラなどを縛り付けて作った松明(たいまつ)を神社に奉納し、火をつけるという祭りだ。

近頃では、めっきり高齢者が増え、若手が減り、松明の担ぎ手がいないということらしい。

担ぎ手を他の組に借り出しても、それでもまだ人手不足、という組も出てきたということ。

そのため、どの組も年々、軽くて小さな松明になってきている。

5月3日は、例年、雨、小雨の日が多いのだが、今年は、晴天。

夜9時になると狼煙が上がり、神官が一番奥の松明から順に点火して行くのだが、今年は、9時15分ぐらいには、ほぼ全部の松明が燃え尽きてしまうほど、すごい火の勢いだった。

 

5月4日、仕事で信楽まで移動。

昼前の何ということのない時間の移動だったのに、山城大橋の途中から大渋滞。

1メートル動いては30秒ほど止まって・・・・みたいな感じで、

渋滞の中、仕方なくコンビニに寄って昼食を買う。

まるでマンガの一場面のような出来事。

最後の1つのおにぎりを自分のすぐ前のおじさんが手にして、何とおにぎり売り場は完全に空っぽという状態。

仕方なく、幾つか残っていたサンドウィッチを一つ手にしてレジへ。

サンドウィッチを頬張りながら軽トラを運転し、渋滞の中を行く。

宇治田原町役場前の信号を過ぎたところから、今までの渋滞は何だったの?と思うほど、全く普通に動き出し、次の交差点で、ついに前を走る車は一台もいなくなる。

大渋滞を抜けた時って、いつもそうじゃないですか?

ある瞬間、全く普通に動き始めるっていうことよくありますよね。

一体何なんでしょうか?

結局のところ、信号と次の信号との間に想定外の車が流入すると自然渋滞が起きるということなのでしょうか?

前日の京滋バイパスでも、笠取インター先頭に9キロ渋滞という電光掲示。

最近、この渋滞は、頻繁に起きる。

判っていても京滋バイパスに入る。

案の定、入った瞬間から京滋バイパスは駐車場状態。

でも、全く止まっているわけではなく、20キロぐらいの速度で流れてはいる。

そして、長いトンネルに入り、滋賀県に入ると30キロぐらい・・・次第に40キロぐらいで流れ始めて、

笠取インター付近に来ると何事もなかったかのように80、90キロぐらいで流れ始める。

いつものことなんですが、渋滞のメカニズムは本当に不思議。

事故があったわけでも、故障車が立ち往生しているわけでもなく、工事をしてるわけでもないのに・・・・信号のない高速道路の渋滞は本当に不思議ですね。

 

桜満開・・・ヒノキ花粉最盛期

  • 2017.04.15 Saturday
  • 08:57

JUGEMテーマ:日常

 

 

 

この一週間、満開の桜の下、車を走らせています。

いつも、同じ道ばかり走っているので、満開の桜と言っても、昨年と同じ風景ですが、なかなか見事に咲き誇っています。

先日のブログにも書きましたが、今年は花粉症が例年になく重症です。

何十年ぶり?と思うほど、スギ花粉の時にも大変だったのですが、今、ちょうどヒノキの花粉が最盛期です。

ヒノキの花粉は、スギに比べると、ツンツンした嫌な攻撃をしてくるので手ごわいのですが、今年はひどいです。

鼻がグスグス、目が真っ赤・・・そこまでならまだ辛抱もできるのですが、スギ花粉の時同様、今年は、ノドが大変。

咳が止まらず、まるで喘息のように、咳が出だすと息もできないほど苦しくて、本当にのたうち回っているという感じです。

夜、寝ていても咳が止まらなくて熟睡ができず、体力的にもすごいダメージで、参っています。

 

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