洋風応接間のある分譲住宅

  • 2016.06.09 Thursday
  • 20:35
JUGEMテーマ:国内小旅行
昨日と今日、仕事で滋賀県内のお宅を訪問した。
カーナビに登録した住所を目的地にして、ナビの指示に従ったり無視したりしながら到着した。
近くに車を停め、目的のお宅へ。
そのお宅は、以前に古い家を解体し、そこに新しい住宅を建てて住んでおられるのですが、その一画には、大正後期から昭和初期頃に流行した、家そのものは純和風だけど応接間だけ洋風のモダンなデザインで建てられたお宅がまだ5軒も現存し、現在も住んでおられる。










現存する5軒のお宅には、それぞれ洋風の応接間がついていて、それぞれ少しずつデザインが違うのが面白い。
聞くと、その一画は、当時の分譲住宅だということ。
住宅地の入り口の両側には、昔の小学校などによくあった石風のコンクリートの門柱が立っていて、
その門柱を入ると、何か時空を越え、不思議な空間に迷い込んだような錯覚に陥る。
和風の玄関の横に張出した洋風の応接間は、おそらく6畳程度の広さだと思われるが、今見ていてもお洒落で魅力的だ。

何軒かは、解体されて更地になっていたり、新しい住宅に建て替えられているが、現存する5軒のお宅は、大きなリフォームをされることもなく、90年の年月を越え、風雪に耐えてきたことがすごいことだと感じた。
ここ数年、戦前の懐かしい建造物が本当に少なくなってきた。
この美しく、素晴らしいレトロ住宅が未来へと残存して行くと良いのだけど・・・。

私が子供の頃、母方の親戚に画家の一家がいて、何度かそのお宅を訪ねたことを覚えている。
ちょうどこんな感じの和洋折衷というか、洋風のアトリエがあって、油絵の絵筆を握る親戚の叔父さんの姿が目に焼き付いている。薄暗い洋館の中には、油絵具やテレピン油の匂いが漂っていたのが懐かしい。
中学時代、画家に憧れ、美術部で油絵を描いていたのも、きっとその影響が大きい。
そして自分も、いつかこんな古くてモダンな家に住んでみたいという憧れがずっとあった。
子供の頃のそういう憧れや思い出が、古い物や懐かしい物への憧れとして、今の自分にも生き続けているようだ。

もう2月!忙しい日々が続きます

  • 2016.02.01 Monday
  • 20:24
2月になりました。
1月3日の仕事始め以来今日まで、一日も休みなしで忙しくしています。
忙しいからと言って、商売繁盛とは言えないのがつらいところです。
引越し前の片付け、遺品整理、不用品の回収、金属類の回収、古紙や古着の回収・・・など、無料回収が基本です。
そして物によっては買い取りをさせて頂く場合もあり、本当に毎日がケースバイケースといったところです。

ちょっと温泉にでも行ってゆっくりしたいと思うのですけど、今年は、どういう訳か1月からスケジュールが埋まってしまってバタバタしています。
先日、ある白髪染めメーカーの方からご連絡があり、約束の日時にご来店されました。
白髪染め関係の古い資料や看板や現物資料などを探し求めて、旧い薬局や骨董屋さんなどを周っておられるとのこと。
一日に何十軒もの薬局や骨董屋さんなどを周られると聞き、『仕事とは言え、本当に大変な任務ですね…』と言うと
『いいえ、楽しんで周らせてもらっています』とおっしゃっておられました。
面白い物と出会えると良いのですけど・・・・。

私も、以前、手当たり次第に薬局や駄菓子屋さんや文具店や模型屋など、いろんな旧い店舗を周って旧い物の買い取り交渉をしていた時期がありましたが、その場で良い返事がもらえることは滅多にないことだったのを思い出します。
名刺やビラをお渡しして、忘れた頃に連絡があれば幸運・・・ぐらいの感じでした。
そして何度も訪ねた村はずれの古い商店は、いつの間にかシャッターが閉まっていて、そして5年、10年が過ぎ、ある時通りがかったら解体されていて土地だけになっていたという悲しい思いをどれだけしたことか。
旧い物が愛おしくて珍しい物や懐かしい物に出会いたくてこの仕事を始めたのですが、自分自身が探している物に出会えるという機会が本当に少なくなってきたように感じます。

あらためて思うのですけど、私が出会いたい物は、国宝級の物でもなく、何百万円もする骨董品でもなくて、私自身が幼い頃に10円玉を握りしめて心ワクワクさせて通った、昭和20年代から昭和30年代の駄菓子屋のブリキケースに入っていたようなガチャガチャの埃っぽい自動車のおもちゃとかプラモデルとか鉄道模型とか・・・そして、究極は、当時の駄菓子屋やおもちゃ屋の風景そのもののような気がしてならないのです。
今日の画像は、10年以上前に撮影した伊勢別街道などの懐かしい風景です。
私が10円玉を握りしめてよく通ったお店は、伊勢本街道に面した古いお店でしたが、とっくの昔に知らない間に消えて無くなってしまいました。
でも雰囲気的には、今日の画像のようなイメージが私の心のふるさとのような感じです。

街道筋の旧い商店街の風景

幼い頃10円玉を握りしめて暖簾を潜った自分自身の姿が見えるような風景

すでに店は閉じられていて、荒れるに任せた状態のタバコ屋さん

かつては賑やかだったのだろう。銭湯も閉店されて久しいようだ

短くなった夏休み

  • 2015.08.21 Friday
  • 06:52
JUGEMテーマ:弾き語り
最近の小中学生は、地域によって夏休みが短くなった所が多いですね。
週5日制によって授業時間数の確保が困難になったという事情に、学校にエアコンが設置されたという物理的な条件が加わり、多くの小中学校では来週ぐらいから2学期がスタートするところが多いようです。さらに、高等学校では3学期制から前期後期制になってきたところも増えてきて、『夏休み』というイメージも昭和の頃とは随分変化したような気がします。

私が子供の頃は、夏休みが40日以上ありました。
そして、その長い夏休みは2週間以上、母方の実家で過ごしたものです。もっと長かったかもわかりません。
小学校高学年になると、1人で旅支度をして、近鉄特急ビスターカーや、国鉄関西線、紀勢線に乗って里帰りをしていました。
三重県津市の海の見える小高い丘の上に故郷の家はあって、朝は虫取りカゴと虫網を持って昆虫採集へ出かけたり、自転車に乗って知らない街を探検したり、午後はほぼ毎日、御殿場海岸へ海水浴に、夜は花火をしたり、桃やスイカを食べたり、夏祭りに出かけたり・・・・来る日も来る日も遊び呆けていたことが懐かしく思い出されます。
故郷の夏休みには、従兄弟や近所の子など、普段の学校の友達とは違った夏休みの友達がいたものです。
そして、夏休みが終わりに近づき、いよいよ自宅へ帰るという頃になると、夏休みの友達との別れがとても悲しかったのを覚えています。
帰省の期間が長ければ長いほど、その別れは辛いものでした。
『9月になれば会えなくなるね』とか『夏の終りはなぜ悲しいの?』という淋しい感情は私の個人的な思いかもわかりませんが、
『さようならの予感』という曲は、そういう少年時代の夏休みの感情を書いた曲です。

ダラダラと遊び呆けた結果、毎年、8月後半の数日間は、溜め込んだ夏休みの宿題に追われ、悲壮な日々を過ごしていました。
そして『来年こそサッサと宿題を済ませて・・・』と決意を胸に2学期がスタートするのですが、その反省は一度も活かされたことはないまま学生時代を終えた私だったのです。

私が、今でも鉄道が好きだったり、田舎の駄菓子屋の雰囲気が好きだったり、古い物が好きだったり、・・・今の私の原点は、三重県津市の故郷で過ごした夏休みにあるように思えてなりません。

明治村旅行記三重県庁ほか大規模な建造物

  • 2015.06.04 Thursday
  • 06:51
JUGEMテーマ:国内小旅行
三重県津市に明治12年に建造され、昭和39年まで実際に県庁として使われていました。
この豪華な洋館風の堂々とした明治の建物が、昭和の中ごろまで本庁舎として使われていたということにあらためて驚きです。
三重県津市に生まれた私は、子供の頃、県庁が解体されて明治村へ移築されたという話を、よく聞いたものでした。
もし、当時、明治村への移築の話がなかったら、新庁舎の建設と同時に解体されてそれでおしまいだっただろうと思うと、明治村の存在意義をとても大きなものだと感じます。
ただ、どの建造物も同じですが、野外博物館である明治村の、維持管理は本当に大変だと思います。
この三重県庁も、平成13年から2年間かかって免震工事が施工されているそうです。




東山梨郡役場です。2階に明治村村長室があり、2丁目メインストリートの突き当りに建造されています。
郡制廃止の後、日下部警察署として使用され、その後、明治村へやってきました。

この通りの突き当りが東山梨郡役場です


北里研究所本館です。
これも立派な建造物です。大正4年に東京都港区に建てられ、昭和55年、明治村へ移築されるまで現存していたというから驚きです。内部の造りも、大学や研究所独特の雰囲気があり、素晴らしかったです。ここで、北里柴三郎が微生物の研究をしていたのですね。現在も東京都港区に北里研究所病院は、健在です。また、神奈川県などにも同系列の、北里大学病院などがあります。
廊下や階段などの改修工事を終えたばかりなのか、室内には塗料の匂いが充満していました。


もとは、三重県津市に建てられた尋常師範学校本館でしたが、その後、三重県名張市に移築され、倉持小学校の校舎として使用されました。明治時代の学校建築独特の堂々とした建造物です。
中央玄関と右翼部分が明治村へ移築されていますが、当然中央玄関の左側には、シンメトリーで左翼部分があったはずです。
一階アーチの飾り、2階テラスの柱や飾りなど、本当に美しい装飾がされています。

明治村旅行記┥臆亜駄菓子屋、写真館、刑務所・・・

  • 2015.06.03 Wednesday
  • 06:08
JUGEMテーマ:国内小旅行
明治村の展示施設は、前回までにご紹介した以外に、公共施設、商店、海外の日本人移民住居・・・ほか本当に多岐に亘ります。
今回は、床屋、駄菓子屋、写真館、刑務所の画像を掲載しましたが、他にも今回の旅行では画像として記録できなかった、芝居小屋、風呂屋、電話交換局、派出所などの様々な施設もありました。
東京本郷の床屋は、明治後期、石川啄木が2階2間で家族生活をしていた居宅です。椅子や鏡は、明治後期の床屋で使われていたものが設置されています。今となっては、貴重な資料です。




明治村内ショップ、駄菓子屋『八雲』として営業されている建造物ですが、移設前は、明治の頃、小泉八雲(ラフカディオハーン)が、避暑をする際、2階を間借りしていた、焼津の魚屋さんだったそうです。当時は、一階の店の間で魚や、干物、海藻、ほか日用生活用品などを扱っていたみたいです。
駄菓子屋では、駄菓子や明治村土産などが昔懐かしい雰囲気で所狭しと並べられていて、とても懐かしい雰囲気でした。


小熊写真館は、新潟県高田市から移設された写真館です。洋館建てのお洒落な建物です。内部の画像を撮影し忘れましたが、内部もお洒落でモダンな造りでした。撮影室の2階の屋根が一部ガラス張りになっていて、自然光を生かして撮影ができるようになっています。


前橋監獄は、まるで江戸時代のままのような牢屋です。それに対して、金沢監獄は、刑務官室から放射状に独房が続く、少し近代的な刑務所でした。

次回に続く・・・

明治村旅行記ПЪ山田郵便局舎と郵便ポスト

  • 2015.06.02 Tuesday
  • 08:03
JUGEMテーマ:国内小旅行
古道具を扱っていると、古い時計、ラジオ、扇風機、電話、・・・ほか、ほとんどの道具類を取扱います。もちろん古い郵便ポストを売買することもあります。
こうして古い懐かしい物を展示してある博物館や資料館を訪ねても、「珍しい」とか「すごい」とかいう感動や心のときめきをほとんど感じない自分が、近頃、悲しいです。
古い物が好きで始めた仕事ですが、昔、色々な古い物にはじめて出会った時には、「珍しい」「すごい」とワクワクしたものでしたが、自分の目の前を何度も何度も通り過ぎるうちに感動がなくなってしまう。
最後には「懐かしい」という淡い思い出さえも色褪せた物になってしまう。
うちの娘が子供の頃、旅行先で民俗資料館などへ連れて行っても『どこの博物館に行っても、資料館に行っても、うちで毎日見てる物と同じ物ばかりで、珍しくも何ともない・・・』ってよく言ってましたが、私自身が今、そういう心境に陥ってしまっているようで、とても複雑な心境です。






明治42年に外宮前に新築され、昭和44年に明治村へ移築された宇治山田郵便局を訪ねました。
現在も明治村簡易郵便局として開局しており、ポストから郵便を投函することができます。
受付では多くの方が、明治村旅行記念に、ハガキを書いておられました。
私は、明治初期からの郵便ポストの変遷資料があったので写真に収めました。
戦後の郵便ポストは、うちでも色々所有しているのですが、画像3枚目右側の、明治41年製丸型1号ポストは、稀少な存在であり、現物を見ていて結構感動しました。
画像4枚目左側の、戦後(昭和25年〜)の丸型1号ポストと大きさや姿形は類似しているのですが、郵便差出口まわりのデザインと、胴体下部に郵便POSTと鋳型で象られたデザインがすごくお洒落だと感じました。
それもわざわざ「郵便」は右書き、「POST」は左書きというこだわりが笑えます。

今でも、田舎の山村などを走っていると、古い戦前の郵便局が残っていることが時々ありますが、やはり、この宇治山田郵便局のように、移築復元されて残されているということは、貴重なことだと感じました。

全国一律、52円、82円でハガキや定型郵便が届けられる、それもよほど遠い場所でない限り翌日には配達されるという、日本の郵便システムは、あらためて考えてみると、驚くべきシステムですね。

明治村旅行記κ舷佑療‖陝⇒弯佑諒姪,鮟笋

  • 2015.06.01 Monday
  • 19:04
JUGEMテーマ:国内小旅行



森鴎外、夏目漱石の住居???前から不思議だったのです。
どうして2人の文人の住居が同じ家?まさか共同生活していた訳でもないはず・・・。
もともと東京の実業家が子息のために新築した居宅が結局本来の目的に使用されることなく賃貸住宅となり、そこに時代と共に何人かの人が居住したのだそうです、そのうち、明治23年陸軍軍医であった森鴎外が2年間居住、そして明治36年、この家の住人となったのが、英国帰りの夏目漱石だったということだったようです。
純和風の、文人好みの当時としては近代的でお洒落な住居。本当に心安らぐ空間でした。
真夏のような陽射しが降り注ぐ中でしたが、室内はひんやりとしていて実に心地よいひとときでした。






帰りがけに西園寺公望(きんもち)別邸を訪ねました。
実は、この居宅については、内部の見学を前からかなり楽しみにしていたのですが、案内時間以外は閉館みたいな感じで、外観しか見る事ができず本当に残念。
2度総理大臣を務めた西園寺氏が、静岡県清水市の海の近くに老後の道楽のために建てた坐漁荘は、晴れたら一日中釣りを楽しみたいという思いで建てた別荘でしたが、2.26事件が起きるなど、元政府要人にとって、1人ゆっくり老後を楽しめるような時代ではなくなっていたようで、せっかくの別荘ものんびり余生を過ごすというわけにはいかない時代だったみたいです。








最後の最後に幸田露伴の住居を訪ねました。
6時間ほど歩き続けて足が棒のように?なって疲労困憊。
畳に寝転んでしばし休憩。
文人の家独特の風流な造りの住居の縁側に座って、冷えたビールでも飲んでゆっくりしたい気分になってしまいましたが、そういう訳にも行きません。
幸田露伴邸の縁側から、向かいに見える西園寺邸を撮影したあと、幸田露伴の写真と同じ場所で、書斎の文机の前で家内に写真を撮ってもらい、急いで帰路に着いたのでした。
(次回に続く)

明治村旅行記ツ觜颯曠謄詼楷杁蔽禺爾任劼筏戮

  • 2015.06.01 Monday
  • 08:15
JUGEMテーマ:国内小旅行
以前、何度か明治村を訪ねた際には、この帝国ホテルにはあまり興味関心がなかったのを覚えています。
あまりに近代的なデザインで、明治(大正)の頃の建物という感じがしなかったからでしょう。
でも、今回、アメリカ人、フランク・ロイド・ライト設計のこの建造物に深い感銘を受けたました。
明治後期から大正時代に、よくこの近代的なデザインの設計ができたものだと逆に感動したのです。
ライトは、アメリカで大きな事件やトラブルに巻き込まれた後、1913年に設計依頼があり、来日し、このホテルの設計に掛かりました。
しかし、予算が予定より大幅に嵩んだり、建設が遅れたり・・・で、ライトは帝国ホテル完成を待たずに解任され、アメリカへ帰国することになったそうです。その後、1923年、仕事を引き継いだ、弟子の遠藤新の指揮のもと、ようやく竣工しました。















ライトは、日本を深く愛し、この帝国ホテルの設計料のほとんどを浮世絵の購入にあてたという話もあり、またこの本館のデザインも平等院鳳凰堂のイメージがもとになっているとも聞きます。
完成後しばらくして罹災した関東大震災でも倒壊せずに、東京大空襲にも耐え、1968年、地盤沈下などが深刻になり解体が決まり、ここ明治村へやってきたのですが、「やってきた」と書くのは簡単。この建造物を解体して、移築復元するのがいかに大変だったか!
おそらく新築するほうがどれだけ簡単なことか。
彫刻が施された大谷石や、建物内外の全体に張られているスクラッチタイルは、場所によってデザインが異なります。
移築にあたって、このスクラッチタイル(レンガ)は、オリジナルから型を取り、新たに大量に焼かれたもののようです。
そりゃ、解体の際に、この複雑な形状のタイルを破損せずに一枚ずつ剥がすという事は不可能でしょう。

また、窓、戸板、金箔貼りの市松模様のステンドグラスなど・・・・・建物を形作る全ての部材、建具、金具等において、移築復元された部材と、復元にあたって新調された部材が仲良く調和しているということに本当に感動してしまいました。
移築されてから半世紀という月日が、この地に根付いたアンティーク建造物としての輝きを放っていると感じました。
2階喫茶室で、食後のコーヒーとケーキを楽しみました。
ライト設計のオリジナルのカフェテーブルとイスも残っていましたが、喫茶室て使われていたものは、そのデザインをもとに作られたレプリカでした。
でも、このレプリカでさえ、今となっては立派なアンティーク家具です。
帝国ホテルの喫茶室という空間で味わうコーヒーとデザートは、最高でした。

明治村旅行記だ郷絨絮 閉耕邯)

  • 2015.05.30 Saturday
  • 08:29
JUGEMテーマ:国内小旅行
かつて長野県木曽路須原宿で開業していた清水医院という個人開業医の住居を訪ねました。
外観は、アーチ窓がついたお洒落な洋館風ですが、内装は、純和風です。
待合室は、畳敷きです。
かつて、島崎藤村の姉、園子がこの医院に入院していたことがあったそうです。
島崎藤村の小説「ある女の生涯」は、姉園子をモデルに描かれたそうですが、その小説の中で、須原の蜂谷医院として登場しているらしい。残念ながら私はその小説は読んだことがありませんが・・・。
診察室にあるほぼ全ての備品や医療器具、家具など、かつて我が店(信楽時遊館)の一室に病院関係の備品や用品、器具などをレイアウトしていた頃にそっくりそのままという感じで、変に懐かしいです。
医者嫌いの私が、古い医院の景色を見て「懐かしい」と書いていることが自分でも笑えます。大嫌いなくせに。
幼い頃から高校時代ぐらいまでの思い出の中にある個人の開業医の風景は、ほぼこんな感じでした。











明治村旅行記F本赤十字社中央病院病棟

  • 2015.05.29 Friday
  • 21:02
JUGEMテーマ:国内小旅行
 
明治23年、東京都渋谷区の広大な敷地に建設され、昭和40年、この地に復元、移築されるまでの間、この立派な建造物ほか、管理棟や病棟など明治のままの姿で渋谷区に現存していたということが、まず驚きでした。
仕事柄、病院の解体や、個人医院の解体前の片付けなどには、不思議と何度もご縁があり、病院関係の備品や雑貨類や医療機器はよく扱ってきました。
古い病院の備品や医療器具などには独特の魅力があります。(私だけの感じ方かもわかりませんが)
ついつい、日赤病院内では不必要と思われるほど多くの画像を残してしまっています。

一時期、当店でも診察用ベッド、身長計、医療棚(ケビント)、ドクターチェア、待合室のベンチ、受付や投薬室のガラス窓、手術用器具、ほか・・・・病院関係のレトロなグッズが一室を占領していた、というか、一室まるごと病院の診察室という感じだった時期がありました。(現在その部屋は、昭和の駄菓子屋の部屋になっています。)

でもそう書いている私自身、実は病院は大嫌い。『もう耐えられない』『このままでは危ない』という危機感がないと病院へは行かない人なのですが、なぜか、レトロな病院の雰囲気は大好きなのです。















明治村へ移築復元されたのは、広大な敷地に建てられていた多くの病棟や管理棟などの建物のうち、わずか一棟だけなのです。
この一棟だけでも、どれだけの広さがあるのでしょうか?
なんとスケールの大きな話なのでしょうか。
木製の窓枠、戸板、床板・・・など、ペンキの剥げた感じも含めて本当に温もりのある美しいレトロ感が堪りません。

病院シリーズ、まだ続きます。
 

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